会員便り

2017年03月15日 想い出あの日あの時

阪神淡路大震災の思い出(奥山庸子)

その頃私は父の看病で神戸に毎月一週間ほど行っていました。母の部屋の屋根は崩れ、母は下半身が埋もれてしまったのです。幸い頭部はベッドの板の所に、タンスが倒れ隙間ができたため無事でした。しかし、近所の方の手を借り何とか助け出したものの、歩けない状態です。消防団に掛け合い、父と母を病院に連れて行ってもらおうと思いましたが、「お父さんは前から病気だから学校へ、お母さんだけ病院へ連れていく」と言われました。私一人で二人を看なければならないので何とか一緒に、とお願いし、二人を病院に連れて行ってもらいました。神戸労災病院もひび割れ、窓も傾く中、けがをした人々で身動きがとれない状態でした。重症の人が多いので、看護婦さんは私の顔を見る度に「すぐ出るように!」と言われます。「せめて主人がつくまでは、置いて下さい。」と何度言ったことでしょう。

前夜いったん東京に戻っていた夫は、当日夜中にやっとの思いで病院に辿り着きました。病院からはすぐに出る様にと言われ、次の朝やっとガソリン二十リットルを入れ、大阪に向かいました。どこからか「ガスタンクの上の住民は上に、下の住民はポートアイランドに行くように」と言っているのが聞こえます。土埃の中、岡本、芦屋も悲惨な状態です。ビルの足が折れ、踏みつけられた状態の車もありました。丁度受験前の頃でつぶれた家の二階あたりで「頑張ろう」と書かれた書き初めが風にひらひら揺れています。

中々動かない幹線道路に、夕やみが迫り、脇道に行きたくても、電線が落ちて火花がパチパチしています。そうこうしている間に、ガソリンスタンドの近くの家が火事になりました。私は「もしこちらの方に火が来たら、あなたはお父様、私はお母さまを抱えて逃げよう」と話していました。

し尿瓶二人分を抱えてやっと大阪に着いた時にはすっかり夜も更けていました。ホッとすると同時に、パチンコ屋のキラキラ光るネオン、ジャラジャラと大きな音に虚しさを感じました。

(S40文 奥山庸子)